Nov 2010
[day147] 聖地エルサレム
テルアビブから直通バスで1時間くらい揺られると、エルサレムの巨大なバスターミナルに到着です。そこからローカルバスに乗り継ぎ、色々な人からお勧めされていたPalm Hostelへ。ここはアラブ系の人が経営している安宿で一泊50ILS(1300円弱)はエルサレムではかなりの格安レベル。おかげで世界中からバックパッカーが集まってきているようで、当時は韓国人とドイツ人がマジョリティ。オーナーさんによると日本人もよくくるけど、今はシーズンじゃないだろ(当時5月半ば)とのこと。はい、よくご存じのようで。
宿の前には旧市街の主要な入口のひとつであるダマスカス門があり、そこを抜けるとエルサレム旧市街のイスラム教エリアが広がっています。店先に並ぶ新鮮な野菜と果物、色とりどりの香辛料、わけのわからない電化製品…、規模こそ少し違いますが、ひと月くらい前に旅をしてきたアンマンやダマスカスを思い出し、不思議と懐かしい気持ちになってしまいました。
しばらく歩いていると、マシンガンを携えた軍人さんが管理しているセキュリティーゲートが目の前に現れました。飛行機の搭乗前よろしく荷物をX線の機械に通してゲートを越えると広場のようなところに到着。髭を伸ばし真っ白なシャツと黒いスーツにシルクハットというまさに正装のユダヤ人たちが巨大な壁に向かって頭を垂れています。そう、ここが彼の有名な「嘆きの壁」。
紀元前にダビデ王が築き上げ栄華を極めたという古代イスラエル王国。中でも神の玉座へと通じているとまで言われたエルサレム神殿の外壁跡がここ。その後、ローマ人の侵略によって破壊され、以来2000年以上もの間、世界中に離散したユダヤ人たちはこの悲劇を嘆き、王国の再建を祈り続けてきたとか。この日も一般の観光客が遠巻きに見学している中、多くのユダヤ人たちが壁に向かって祈りをささげていました。一応、外国人向けのエリアもあり、観光客も祈りの真似ごとをすることは許可されているのですが、あまりにもユダヤ人の皆さんが真剣に祈っているため、僕自身はずかずかと土足で入っていく気にはならず。
そしてその壁を見上げると、その奥には世界最古のイスラム建築、岩のドームが鎮座しています。イスラム教徒にとってもエルサレムは三大聖地のひとつ。創始者のムハメッドが天を昇り一夜にしてメッカからエルサレムに飛んだ体験をしたと言われています。残念なことにイスラム教徒以外はエリアそのものに立ち入り禁止になっていたのですが、丘の上から眺めると金色のドームが良く見えます。
更に散歩を続けると、キリストが磔にされたゴルゴダの丘に建てられたという聖墳墓教会が。聖地であるこの地を奪取するために中世キリスト教諸国が十字軍を派兵した話は学生時代に世界史の授業でやったような気が…。当日もどこかの教会のベルが鳴り響く中、キリスト教の団体のツアー客が聖歌を歌いながら教会の周りを歩いていました。
宿を出てからこの散歩コースを歩くのに僅か2時間。立ち止まらずに歩き続ければ1時間もかからない範囲の中にアブラハムの宗教と呼ばれる3大宗教の唯一とも言える聖地があるのです。街中を歩いているとマシンガンを持った軍人さんがそこら中を闊歩していて、この街が世界中の民族問題の争点となっていることがひしひしと伝わってきました。まぁ、皮肉なことに強盗などの軽犯罪の不安は彼らのおかげで全くありませんでしたけど。さすがにマシンガンを持った人の前で人にナイフを突き付けるようなバカはいないでしょうし。
それにしても宗教って難しいですよね。これはオーストラリア留学時代から感じていたことなのですが、人間って似た者どうしで固まる習性がすごく強い動物だなぁと思います。家族、国籍、性別、出身校、人種、趣味、好きな歌手etc、 誰かが自分と似たような属性を持っていれば仲間として認識し親近感が湧いてくる。一方で反対の属性を持っている人に対しては排他的傾向になりやすい。宗教なんてその最たるもので、同じ教義を共有していれば国籍すらも飛び越えて仲間になれるのに、自分の宗教だけが正しいと信じていると他の宗教に対しては徹底的に攻撃的になってしまう。
そして、このエルサレムには自分たちの神こそ唯一の神だと信じている宗教が三つも集まって「ここうちの!」と言い合っているわけで。そりゃ、大昔から紛争だらけになるのも頷けます。思わず「ねぇ神様、あなたは何人いて一体誰が本物なの?」と呟きたくなるほどに。
対して日本人の宗教観は彼らとはかなり正反対。一般的な日本人は幼少期の成長を神社で祝福されて、結婚式は教会で挙げて、葬式は仏様の前でという、見事なチャンポンっぷり。年末にはクリスマス→除夜の鐘→初詣ともっと忙しいですし。でも、どれも強く信じているわけでもないから、海外で「アナタハ神ヲ信ジマスカ」とか聞かれて返答に困ってしまう人が続出するのをよく見てきました。
僕自身、昔はよく悩みもしたのですが、最近は強く帰依することがないということに対して逆に誇りを持つようにしています。その方が自分の価値観を元に行動を決められるので。だから、敢えて挙げるのならば僕が信じるのは自分自身と社会道徳。他人への親切ひとつにしても、神様に「人に親切にしなさい。そうすれば天国に行けますよ」って言われたからやるんじゃなくて、単に相手の笑顔を見ることが嬉しいから助けるわけで。
うーん、脱線気味な上に重ためな話になってしまいました。ただ、この街には「早く平和が訪れるといいですね」なんていう軽い言葉で締めきれない、人の業の歴史が詰まっていて、深い何かを考えずにはいられなくなってしまうのです。赦し合い、認め合い、譲り合い、子供時代に誰もが教わる大切な事ですけど、むしろ大人になってもできない人が世界中に多いですねぇ。いや、大人ができないからこそ、子供に教えているのか。いつの日かみんなができるようになる日は来るんでしょうか。。